青写真

ゲームとおいしいものと、時々、日常

『すべてがFになる』初回放送を見て糸色望を召喚したくなった火曜の夜  

※ドラマ制作陣に全力で喧嘩を売るスタイルでお送りします。原作派でない方/演者のファンの方には謝意を表しておきます。そして初回放送分に関してネタバレます。

 

最初に言っておこう。

自分は森博嗣の作品が物凄く好きだ。様々な面で影響を受けている。

これ以上自分語りをしても面白みも何もないので詳しく書くつもりはないが、まあとにかく素敵な作家であり研究者、かつ教育者だと思う。

 

理系が全員森氏や氏の作品に出てくる人間のようかというとそうでないし、どちらかと言えば違う人間の方が多い。

まず分野でだいぶ人間性は異なるし、同じリージョンでも理論屋か実験屋かでも全く違う。どちらかと言えば森作品の登場人物(理系に限る)はスマートな思考の人間ばかりである。ラヴちゃんはちょっと直情的かも。

あそこまでピーキーな人間ばかり出しているのは選民思考ではなく小説だからという部分が強いのだろう。フィクションですから。

それでも読み進めると個々の人物が愛らしく思えてくる。不思議。

 

 

閑話休題《それはさておき》。

すべてがFになる』がドラマ化すると知ったのはテレビでCMが流れてからだったのでごく最近だ。

CMを見て告知サイトに行った時点で不安しかなかった。

キャスト云々は好みだと思うので基本的には触れないでおこう。出演俳優さんそれぞれは好きな方が多いくらいだ。いやまあ喜多先生と犀川先生は高校の同級生なのにあの配役はおかしいよなあと思ったけれど。

まず先行映像やTV番組雑誌で抱いた一番の違和感は「犀川先生が眼鏡ではない」「萌絵の髪が長い」であった。この二点は原作若しくは浅田版『すべF』を読了した人間なら全員違和感を抱くだろう。理由をさっくり知りたい方には浅田版『すべF』を強くお薦めする。この浅田版『すべF』の巻末には初期設定と森・ささき両氏と担当氏のチェックによるファッション変更が為された理由がきちんと書かれている。

OAの時系列が刊行順でない理由は多分『冷密』が『すべF』より先にできた作品だからだろう。コミック版『すべF』あとがきによると4,1,2,3の順で刊行されているそうだ。従ってOA順で文句を言う必要は皆無だろう。

開始前から散々文句を垂らしつつきっちりOAを見た。

見ないで文句を言うのは森氏と制作陣に対する冒涜だと思ったからだ。見てきっちり暴言を吐こうという腐りきった魂胆である。と、ネガティヴさを遺憾なく発揮しているが仕上がりさえ良くて手放しに褒めることができる作品であれば狂喜乱舞していた。

過去形。

そして火曜夜9時前にテレビの前に座り放送を見た。

開始1分で『さよなら絶望先生』の「あれ、不可よ。原作があるじゃないかね」という話を思い出す程度には憂鬱になった。

 

 

絶望した! 森博嗣の名前を借りた別物の作品に絶望した!

スカイ・クロラに引き続き6年ぶり2度目)

 

 

再三言っておくがキャストに文句をつける気はない。決まってしまったものに文句を言っても仕方ない。演技に関してもその人選になってしまったのだから仕様がない。

前述の萌絵がロングヘアで犀川が裸眼なのは両親の事故エピソード自体をカットするのだろうと思っていた。だがきっちりやっている。ならば何故この2点を弄ったのか。既にこの時点で矮小なわたしの脳には理解不能である。

真賀田四季が青い瞳なのを再現しているのには少し安心した。だがこうやって真賀田四季を実写化されてしまうと四季が出てくる別作品を読んでも思い出すことになるだろう。代表的なのは四季シリーズだろう。少し厭な気分になった。

7とFというワードをもっと大事にすべきだと思ったが『冷密』が二週放送されるからあの程度だったのだろうか。

そうしてOPが開始された。

瀬在丸紅子がブリティッシュロック好きというところからThe Whoだったら嬉しかったんだがなあと頭の片隅で思ったバンド(もといドラム)バカである。

完全に蛇足。

 

 

面倒臭いので以下のキャラクタに対する敬称は省略する。

 

 

犀川達が所属する大学がN大ではないのは仕方ないだろう。大学に関する制約がかかるのは予想済みだった。私立ではないし大変なのだろう。だからと言って神奈川の大学にするのはどうだろう。妃真加島をどうするつもりだろう。そこだけ日間賀島にするのだろうか。猿島を妃真加島にするつもりだろうか。県知事夫人を県知事に改変した脚本家にそんな部分を求めても仕方ないだろうな。

国枝桃子が鉄面皮な部分や男らしい部分に関しては上出来だと感じた。ところで国枝の彼氏(もとい旦那さん)は出てくるのだろうか。

綾野氏の「真賀田」の発音がやけに耳についた。

 

研究シーンで犀川の使用するマシンがMacでない時点でかなりうんざりしたし、彼がチェーンに近いヘヴィスモーカでコーヒー中毒なのが出てこないのにはげんなりした。昨今喫煙描写が制限されるのは時勢だから仕方ないのだろうがコーヒーだけでもたくさん飲んで欲しかったので至極残念である。

それにしてもMacが使えないならばLinuxにできなかったのだろうか。『すべF』の放送、特にRed Magicの描写が益々恐くなる。森氏はパーソナルコンピュータ黎明期の研究者である。このあたりは『喜嶋先生~』で描写されている。

この辺りのOSの歴史だとかMac vs WindowsのOS戦争に突っ込むと確実にボロが出るのであまり詳しくは書かない。

自分の確認した限りにおいて実験屋にMacユーザが多いのは、森氏世代の研究者が生徒を持つことにより生徒もMacで環境を揃えることから来る順当な結果だろう。理系でもWindowsだけの環境の研究室もあるので何とも言えないが。同じ研究チームでもMacの何がいいのかわからんというゴリッゴリのWindows派がいたりするので何とも言えない。動かしたいプログラムに分けて両方使う人もいる。BootCampすればいいし。

 

 

話がドラマの内容からだいぶ逸れた。本篇に戻る。

木熊研のメンバが白衣で出てきた時点で溜息が出てきた。

白衣を着るのは実験屋でも薬品を多用する研究をする分野だけである。分野次第では実験屋でも白衣を着ない人間が殆どだ。学生実験で強要されて着る程度だろう。

物凄く嫌味な見方だが、森氏に「犀川(研や理論)の人間は白衣を着ません」と言われたのを「は」の部分だけピックアップして「じゃあ犀川研以外の人間は白衣を着るんだ!」と解釈でもしたのだろうか。素敵な思考回路をお持ちですね、羨ましいです。その短絡さを分けていただきたいです。

それにしても研究室メンバが大幅カットされたのはいただけない。大学の規模によるが、だいたい教員1人につき1学年あたり2・3人とだとするとあの人数は少ない。実験屋であの人数はいかにTSがいるとは言え少ない。極小だ。木熊が厳しいとは言えあの人数はおかしい。白衣以前の問題だ。あの人数に減らした人間に実験の大変さを滔々と説きたくなる。キャスト過多による出演料と脚本の多さによるコストダウンを図る前に人数がいない実験がどれだけ悲惨で泣きたくなるか思い知れと。

ついでに萌絵の漫研エピソードがカットされたのはもう諦めた。可哀想な喜多北斗には教え子がいない設定に改変された。それにより彼が実験室を案内するという改変が入る。喜多はレディ・ファーストな精神の描写が溢れ出ていて、国枝の描写と共に安心できた。

 

 

実のところ実写にあたり興味があったのは実験系の再現である。自分はごくごく自然にもっと大きな実験系/実験室を考えていた。この実験で重要なのは温度であり、八川が0.7度でも厳しくモニタするのだから温度が上下しにくいように部屋がそこそこ大きく取ってあると思っていた。

思っていた。

で、そんな幻想を抱いていた自分に突きつけられたのはあの実験室である。

国立大は私立に比べハコモノを大きく作ることができるという利点を無視している。そんな狭い実験室に思えた。同時にあんなもんなのかなぁと醒めた目で見る自分もいた。

計測機器はあのカメラとセンサだけだろうか。それがこの約20年の技術進歩なのだろうか。

 

実験シーンを細かく描写できなかったことに関してはまあ仕方ないだろう。次回への布石もあるだろう。

だからこそ実現可能なMacUNIX)や萌絵の車、白衣などの小物だけでも良いので原作寄りにして欲しいと思ったのは無茶な願いだっただろうか。

こうして自分の中での台場球体テレビ局の脳内株価がストップ安を久々に更新したのである。『柳沢教授』実写化のときも暴落したが。

この時点で「はいはいワロスワロス」「(制作スタッフよ)お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」という見方に変わってきてしまったのが自分でもかなり悔やまれる。

 

 

打ち上げシーンで犀川が飲酒しなかったのは飲酒運転の問題が取り沙汰される昨今だからだろう。

そして鈴村もリストラされた。つくづく人をカットした作品だ。人間が多すぎることで視聴者が犯人を特定できないと思っているのだろうか。ゆとり仕様ですね。

そして訪れる鵜飼のターン。この制作陣は鵜飼をゴリ推ししたい病に罹っているらしい。

鵜飼はいいキャラだと思う。だが説明しすぎだ。

そしてキャスティング云々言いたくはなかったがどうしても我慢できなくなったので触れておく。鵜飼は大柄ということがきちんと文面に書いてある。自分の持っていたイメージとしてはジャーマンシェパードを人間にした男だった。この記事を書きながら「戸次氏よりも鈴木亮平氏って感じだよなあ、鵜飼って」と思った。

その後のカフェテリアのシーンはコミカルさを押し出そうとして綺麗に滑ったとしか捉えられなかった。嗚呼、自分の心の狭きことよ。

 

いちいち辛辣な国枝桃子に何故か安心するも自分は決してマゾヒストではない。

あ、浜中深志は概ねイメージ通りでした。動いている浜中を見る前は濱田岳氏を勝手にイメージしていた。

 

警察の尋問からではなく、萌絵と喜多の会話からダクトスペースが発覚することで萌絵の卓越した理解力を表現しようとしているのはわかった。が、萌絵の頭脳が素晴らしいという描写が開始すぐの四季との会話しかないので残念極まりない。ト書きではないがナレーションか何かで萌絵がどんな人物か説明しないと解り辛いシーンである。まあ徐々に説明するんだろうけれど色々キッツイよなーと。

飽くまでも個人的なイメージだが、萌絵は現行のコンピュータで犀川量子コンピュータという感じで見ている。構造的な問題だが。

本篇に戻る。

三人が増田の屍体を発見した際の市瀬里佳の反応が棒すぎてなんだかなぁと思ってしまった。あれが演出だとしたらちょっとどうなの。

 

船見や他の研究室メンバを腹黒感たっぷりに描写したのは推理をさせる為だろうが、その点においても最初から院生の人数を減らさなければこんなシーンは不要なのである。

 

萌絵が極地研に侵入するファッションは浅田版『冷密』を意識している感じだった。

で、実験用プールに突き落とされる萌絵。USBメモリに変わったからできる芸当描写である。もうこの時点で自分は笑い出していた。

犀川先生早く! 早く萌絵を助けに行って!」と原作を読んでいて手に汗握った部分が愉快な氷水風呂コマーシャル的なシーンに変わったのだ。

 

 

まあ何だ、ここまで書いてきて思った。

これはS&Mシリーズの皮を被ったコメディドラマなんだなーと。

そう考えることで一気に愉快な気分になれました。

萌絵は全くお嬢様っぽくないのでもう残念ここに極まれり。どうせトーマも諏訪野も出てこないんでしょ? 知ってる! 期待するだけ無駄だもんね!

 

 

前回の記事で某黒歴史ゲームに時代考証した後なので事実を追求する人間と思われそうだが否定しておく。原作原理主義でもない。十二国記指輪物語といったフィクションも大好きですし重度のメガテニストだし。黒歴史ゲームに絶望して買ったソルサクが楽しくて仕方ないし。無双シリーズ大好きだし。

ただ単に曲げて欲しくない「犀川Macユーザである」という譲れない部分がユリ・ゲラーの曲げたスプーン以上にひん曲がったので、もう笑いつつ見るしかないという結論に達しただけである。

もう萌絵のファッションに関しても期待していないし、あとは世間が理系に対しまた誤解を抱かない話にできることを祈るだけである。無理っぽいけれど。

 

来週もこんな調子で突っ込んだらすみません。

この記事を書くまでにプニルが3・4回立て続けに落ちた。ターミナルでsudo purgeを打ったし起動しているのがプニルだけなのに。MacガーMacガーと書いたことによる呪いだろうか。単にYosemiteが安定していないだけだと思う。最近のMax OS Xはダメダメだな。

 

ここまできたら自分の中でベストオブ森作品の『黒猫の三角』が映像化されないことを祝うべきかもしれない。

それにしても『俺屍2』といい『すべF』といい、十年以上愛した作品への想い出を今このタイミングで更地にしにくるのは何故だ。ピンポイントで地雷を踏み抜く訓練をしている気分である。

そして今年学んだのは、制作陣が本家や前作への愛を声高に語った場合それは大概信用ならないということである。こんな大事なことを教えてくださってどうもありがとうございます俺屍2のポエムシナリオライターさん、そしてすべF製作陣さん。

 

一応押井版クロラにフォローを入れておくと「森博嗣の『スカイ・クロラ』シリーズとして見ると全く別設定だけれど映画としてはとても良い作品でした」。