歴史に疎い人間が必死に資料集めと考察をしてみた
アオイホノオ録画し忘れた……。P4Gも忘れた……。
誰か今回のonちゃん安田さんについて教えてください。
何話か撮れていないしレンタルになったら借りてゆっくり見よう。
今日のエントリは長めです。
今日こそ俺屍2の話題
パッチ配布がきましたね。そしてさっそく進行不可能なバグが発生しているようですね。
再開したVitaを放り出したのは自分です。体調も相俟って百鬼夜行シリーズすら持つのが 億劫です。
一年前のTGSにはうっきうきで早起きして行って、当主様カードを作っていただいて、滑り込みだったので友人とキャッキャして、福圓さんにびっくりして。いつ頃発売かなあなんて話して。色々あった。
まあ悔いても始まらないので追加アップデート待っています。今週だそうですね。
シナリオ? ぼくのかんがえたさいきょうのとうしゅさまのお話になっていますが、何か?
俺屍2と歴史まわり
大丈夫? な攻略本は未入手なので、購入後間違っていたら訂正します。
ほぼ自分用のメモめいた記事。近いうちに図書館で資料探ししたいけれど、地元の図書館ははなぁ……。遠出する必要がありそう。
小学生の時に買ってもらったあたかも歴史を見てきたかのように書く本が見当たらないので考察がし辛い。
こんな考察ゲームに求めない、というのはごくごく正論で、本当に個人的な趣味として調べただけのもの。
※うぃきぺには結構嘘が載っているので、きちんと調べ直したら書きます。
※自分の歴史知識は京極作品と高田作品に拠るところが大きいので、アレだったらすみません。
1)黄川人の冒頭に言っている天変地異とその前後の歴史
今回の物語は1120年から始まる。Wikiによれば元永3年(ユリウス暦5/9まで)、保安元年。この時代は第74代・鳥羽天皇の治世。実際には鳥羽天皇の祖父・白川法皇(1053-1129)が治めていたとのこと。鳥羽天皇の時代には院政が本格化。摂関政治の終焉、つまり貴族の時代の終焉が始まる。平安時代は改元が多い(ここを参照のこと)。改元=(大雑把に言うと)不吉な出来事がある、という意味で黄川人の言っていることの裏打ちになる。
前年の1119年に鳥羽天皇の第一皇子・崇徳天皇が誕生。この崇徳上皇と後白河天皇(1127-1192)を巡り後に保元の乱が起きる。1156年。どっぷりモードの場合は早解きしない限りここまで来るだろう。崇徳上皇に関してはリストラ神の一柱・祟良親王のモデルの半分。もう半分は早良親王。これは攻略本に書いてある。
保元の乱に続いて起きたのが平治の乱、これが1159年。両方にかかわる人物・平清盛(1118-1181)。源頼朝は1147-1199。清盛が生まれてすぐに一族が殺されたと思えばわかりやすい。ちなみに『方丈記』を書いた鴨長明が生きたのが1155-1216なので、『方丈記』は少し参考にならないと思われる。
元永に改元した理由は全国的な飢饉のよう(元永年間のWikiより)。
こちらは一年毎に書いてあるので必要な場所まで飛ぶのが大変だと思うので抜粋。
1096 大地震があり、京都、近江、伊勢、駿河の諸国が被害を受ける。
1097 -
1098 京都の大火 三条富小路、万里小路などが焼失
(中略)
1108 浅間山が噴火 上野の田畑が壊滅的な打撃を被る。
(中略)
1151 大風洪水により宇治橋が流される。
(中略)
1168 京都が大火 千手堂、悲田院、京極寺などが焼ける。
で、これだけではない模様で、こちらを拝見するとわかりやすい。
浅間山と大島の噴火や1097年と1104年に永長と康和の地震もあるし、疫病も流行っていたようだし、彗星も流れるし。結果、一族郎党皆殺しである。実際は表の理由自体は祭具紛失から来るというのが俺屍2の中の歴史だが。
ちなみにWikiには平安時代には長い間死刑がなかった、との記述があるのですがそれは色々な方が考察しているので簡素に言うと一概にもそう言えなかった、という話。だから「勅命ではないが一族が殺された」つまり「はるあきによって殺された」と読むとかなり自然。
こちらのはてなでは平安時代の死刑に関して詳細な考察がなされていてとても参考になった。
2)落ち延びる前の一族の生活だとかそんなん
まだ何とか希望を見いだしていたこの時期に書いていたようなことを重箱の隅をつついてみた。
※当家の設定(予定)を一部盛り込んであります。
1・Rの物語は1018年4月スタート。裏京都を完全攻略せず、“水に流し”た(そういえば、これって蛭子から来ている台詞なんですかね)として大体1040年前後に一族は普通の人生を歩むと考える。
すると1120年に2の長子が幾つかは各々設定していただくとして(かつ末子まで生まれていて、長男は元服前なので10代前半)、大体4世代前の当主が昼子様と話し合ったという計算になる。当時の結婚・出産だとかそういう観点から。現代だと一世代約30年(のはず)だが、当時なので一世代20年より短いと考えられる。5世代でも良いと思う。逆算して考えればいいと思う。何だったらそういうの考えなくてもいいと思う。2のシナリオ自体が1との整合性を考えていなさそうだしねえ
註)下ノ森家はそういう前後の家系図で妄想プレイログを書いています。公開は未定。
1040年前後に京へ戻ったと仮定し、1)に書いたこの前後の歴史を加味して考える。
その場合、一族が普通の寿命を取り戻した時期にはまだ院政期に入っていないと思われるので、多分一族は北面武士ではないと推測される。更に北面武士は厳密には御所の北側だけを守った一族なので、御所番とは言い難いように思える。従って一族の祖先は検非違使(または時代によっては衛門府の人間)の地下人だろう。源太のモデルは源頼光か藤原秀郷だろうし、軍事貴族と考えるとそれなりに自然。ただ、二人と違って賜姓降下とも考え辛いので殿上人ではないだろうということで、諸大夫でもないと推察した。近衛府を除外したのは賜姓降下した身分ではないという判断から、出世コースではないだろうと考えた為である。
検非違使に関する役職の内容や位階などはこちらがとてもわかりやすかった。他の官職も詳しくて、参考になった。
検非違使の武力の主体は、当初、河内・摂津を主とする畿内の在地勢力(在地領主・有力農民)出身の「志〔サカン〕」だったようですが、11世紀後半以降は、そうした畿内勢力を配下に吸収した「北面武士〔ほくめんのぶし〕」(=院の警護・及び僧兵防御のため、院御所の北面に置いた武力組織。ですが「武士」ばかりとは限らず「貴族」も含みます)の「尉〔ジョウ〕」が主体となります。
畿内に小さな土地を持った一族が、志から尉になったと考えると自然なように思える。畿内でないと朱点討伐、とならないだろうと判断したからである。自信はない。
ともかく。志は正八位下、尉は正七位上である。殿上人の家系でもない一族は出世できてもここ止まりの気がする。
この時代の庶民や武士の暮らしというのが全くと言っていいほどわからない。収入に関してはゲーム内通貨の単位がアレなので後で細かく辻褄合わせをすればいいと思っている。西行に関するこのページによると、七位で年収90万円相当とある。
だがしかしこんなページも見つけてしまった。季禄が493万円。平民の十人家族の収入が41〜70万円相当らしい。
ちなみに後者に記載されている正七位上の宅地面積は2000平米とある。だいたい普通の体育館2・3つ分らしい。十分広い。ただ、当時はまだ敷地内に産屋があったのでこんなものかも。厩も必要だし。平屋建てだし。屋敷は一遍聖絵の武家屋敷を考えるべきか、それとも寝殿造りか。1・Rの屋敷=源太が住んでいた家、と考えて差し障りないだろうから2はまた別に考えなければ。まあ多分武家屋敷だろうな。
ともかくこの収入なら良い暮らしができているように思える。朱点童子討伐をしたのだから、この暮らしは当然と見るべきか否か。迷う。いや実はもっと高い位階でお金持ちなのかも。凄いな一族。書き直さないと。芋粥くらい日常的に食べていそうだな。
ついでに地下人とすると、年代的に普通は地方に下向していそうなものなんだが、そうすると「御所番の武家一族」という文言がおかしくなる。受領で遥任なのだろうか。うーん……。
まあ検非違使から北面武士になっていたら黄川人の話に整合性を持たせることができるんじゃないかと。本当は法皇のお気に入りだったのに責を負わされ一族郎党皆殺し、みたいな。かなり苦しいな。永遠の謎。
数日間このことについて考えていたが、辻褄が合わないので「武士」と考えるからおかしいのであって「侍」と考えるのはどうだろうかと思った。
武士に関する考察はこちらのサイトが詳しく、他方面から検証していらしたので現在も繰り返し読み直している。
侍というか時代からして侍品というべきか、武芸を技能として貴族に仕えていたと考えるべきだろうか。
すると1・Rで屋敷を持っているという部分に齟齬が生じるのでやはり地下人かと思う。結局検非違使少尉か左右衛門少尉くらいが妥当だろう。
まあそんな感じで、一般家庭の年収が70万以下の時代に推定年収500万以上の一族。何を食べていたか考えると面白い。
ちなみに干物はあったらしい。今の半生ではなくてカラッカラに乾かしたもののようだが。塩辛納豆もあったみたいだし、梅干しもあったようだ。調味料も酢や醤があったみたいだし。
麦索(索餅)という味なしベビースターみたいな何かもあったようだし、さほど悪くはなさそう。料理の味付けは今ひとつだった模様だが。こちらを参照のこと。
以前NHKで見ていたが、日本の男性が甘いものを食べないという日本の文化は酒が甘かったことに起因するのではないか、という考察を何かの番組でしていたように記憶している。糖度35%ですって。糖尿フラグ。
頼朝は鮭を食べて感動した、という話が『吾妻鏡』にあるそうだ。関西では鮭が江戸時代まで貴重品だったということなので、在京時代の一族は鮭は食べたことがないのだろう。鱒はあるかも知れないが。
かなりの収入があったことを考えると一族は意外といいものを食べていたんだろうなと想像する。但し当時は運送手段がロクになかった筈なので、鮮度だとかそういった意味では残念だと思う。それ以前に飢饉だし。
服や髪型は色々面白い。子供の着ているものだとか、検非違使の服だとか。髪型も年齢で決まっている模様。
まあ生まれたら数日でかなり大きく成長するだろうから禿に切っている時代なんてないんでしょうけれども。元服するまで垂髪結っている男子って考えたら可愛いじゃないか。※だけど。坊主の子は最初から坊主だろうけれど。女の子は決意で切ったとかそんなことまで妄想できるじゃないか。まあ別に最初っからショートでもいいと思うけれどね。住まいが北だし。
好きな家族に髪結い紐を買ってあげる妄想が捗る捗る。
9/23 2:30過ぎ追記
あれだけGoogleに「検非違使の仕事に関する資料出せやオラァ」とキーワードぶち込んで調べたのに、アップした今頃になって下の方の検非違使に関する職務のページ見つけた時のこのげっそり具合……。 こちらね。
源平以下の武士が起用されたのが、追捕(ついぶ)尉といい『少尉(しょうじょう)』を原則とした。『少尉』は『判官』ともいい、「追捕の輩(やから)」即ち、犯人等を追捕する事が専務である。この職は6位の蔵人になることを望み、最もこれを名誉とした。蔵人にならば、6位でも昇殿を許されるので、検非違使で昇殿するのをこの上ないものとして威勢を誇った。これを蔵人の尉とも、うえの判官ともいう。
『少尉』には武士の重代の者か、諸家恪勤(かくご;平安時代、院・親王家・大臣家などに仕えた武士が補され、衛門尉の従6位上~正7位上相当)が「(検非違)使宣旨」によって補され兼任した。 『志(さかん)』にも明法道出身者が起用されることが多く、道志(どうし)と称し、『大志(だいさかん)』は、衛門志(正8位下~従8位上相当)が「(検非違)使宣旨」によって補され兼任した。原則的に明法家の家筋の士であった。
あれ? 仕事内容は合っているけれど御所の番じゃない。
ということで調べていた。
よくよく考えると上で少しだけ触れた西行法師は1118-1190。ちょうど俺屍2の時代を生きた人である。こちらの年譜が西行の生きた時代そのものを纏めてあるので時系列の把握ができる。祖父が検非違使、父は左衛門尉(検非違使兼任だろう)、当人は出家前には左兵衛尉と北面武士であったとのこと。まあ左兵衛尉は金で買ったという話のようだ。
西行の祖先は前述の藤原秀郷の子孫だったので、完全に一族の設定と同じとは言い難いが位階の参考にはなる。
で、その西行法師、俗名佐藤義清だが、一族代々は在地領主だったらしい。つまり在地領主が一代のうちに毎回出世して、検非違使にまでなったと考えるべきだろう。この時代は速度は違えど毎回下の位から出世していくはず、というように記憶しているので、打ち消しのような内容を書いたが自信がないので打ち消しておく。
位階が下の人間は牛車での禁止ということで、佐藤一族は徒歩で通っていたと考えられる。
これらを一族に当てはめて考えると上で出した案の一つ「畿内の土地持ち下級貴族」がしっくりくる。家族がどこにいたのかという問題は残るが。あれか、妻の家が金持ちで京の近くにあったのだろうか。
更に検非違使は位によっては衛門府の職務と兼任するのが通例だったようなので、門の警護をするということから前述の懸念は払拭された。
ということで、やっぱり検非違使が一番妥当だと思うんですよね。北面武士にしない理由はまあ当時の※職だったようだし、上皇のアレ的なお相手もしないといけないのでね、ということから察して欲しいです。
北面武士でもそれはそれで面白いシナリオ(TRPG的な意味で)だと思うのでいいと思います。
9/23 7:50追記
この時期は妻問婚の中でも招婿婚が主だったようだ。一族が素早く処刑されるとなると妻が京にいる(ないしは近い場所に住んでいる)、つまり妻方の一族まで処刑されていることになる。妻方の一族はとばっちりか。
で、上でごっちゃごちゃ書いていた住まいの問題だが、妻がそれなりの家柄ならば子供と共に京にいるので捕まえ易いだろう。夫方の両親? 既に死んでいるか地方からしょっぴかれてきたんだろうよ。
これでどうにかゲーム内初代当主の父が検非違使や衛門少尉という説に辻褄が合うことになる。
3)落ち延びた先の文化
下ノ森一族は後の渡島国相当に辿り着くことになりました。家紋が氷柱雪で何という偶然。
ただ、当時の道南は擦文文化からアイヌ文化への変遷期なんだよなぁ。となるとアイヌ語があったのか悩ましい。アイヌ語という名前がなくとも文化が形成される時期なので、その言語の芽はあったのではないかなぁ。
それも踏まえて書くとなると恐ろしい。あまり資料がないみたいだし。まぁ……そこは創作するしかなかろうなと。
更に、屋敷(と街)、迷宮が
このようにねぇ どう控えめに見ても全部ド山中なわけですよ
屋敷は目測したところ、桂岳と他の山の山間みたいだった。足腰の強い子が育ちそうですね。
検証に重ねたのはGoogle map。古地図も重ねてみたのだが、見つけたのが悪いのか函館がうまく重ならなかった。後で地理院地図が便利なのに気付く。
これが東北ならアシタカ妄想が捗るのに。その妄想は東北勢に(勝手に)託した。
落ち延びた一族が人目を逃れるようにして山間に村を築いて、本土の言い方をすれば大天狗のような何かがいると思われていたら面白いなと。
しかし北海道のサイト、重くて繋がらない。アイヌ語に関しては物凄く勉強になる。アイヌ語の意味から土地の雰囲気がわかるので有難い。
尚、函館の船魂神社は1135年に造営されたとのこと。本当なら物語と近い年代だ。
割と真面目にプレイログを書こうと思っていたのに、蝦夷の地へ飛ばされるとなるとどうバカの血が騒ぎまくって、ここまで資料探したんだけれどもという気分といやこれは交神どうでしょうといくか……と思わなくもない。
4)蛇足
劇場アニメになった『鬼神伝』はよくよく考えれば平安時代の話だし、高田先生なのできっと時代考証バッチリだし自分は読むべきだと思った。そしてQEDシリーズとカンナしか買っていないダメファンだと今更気付く。確か『鬼神伝』は最初ハードカヴァーで発売されて、同じ作家さんの作品は極力同じサイズで揃えたい自分はノベルス版を待ったのだった。高田先生の作品に出会ったことで嫌いだった古文も楽しくなったのは良い思い出である。
(ネタバレにつき未プレイの方は一部反転)やたと阿吽が式だなんて妙な設定を作った人は『式の密室』を読むといいよ。上で殿上人どうのと自分がしつこく書いた理由はこれみたいなものだ。
あとどうやら家紋がどうのと宣っているようなので『熊野の残照』も読めばいいんじゃないかな。『神器封殺』とかもさ。
考えてみれば『Beast of East』も平安ものだった。参考になる気がするので探し出したい。
またちょっと本篇に触れた話なので一部反転させる
こうして本を引っ張り出して読んでいる間にふと思ったが、八坂牛頭丸は牛頭天王がモデルである。牛頭天王は本地垂迹でいうと須佐之男命だが、■■■■■が凄ノ雄だとどう考えても須佐之男命が元ネタだろうから二柱は近似的にイコールになるはずだ。その片方がボコられて神様始めましたって物凄くおかしい気がするのは自分だけだろうか。
前作までの神様の設定はきちんと考えてあったと思うのだが、今作は何と言うべきか破綻が凄い。
さいごに愚痴 引用ごと白字にしておく
しょうだみわだいせんせいの意識高い()有難いお言葉を転載しておく。
悩んでる人を前にして、「そんな悩み、たいしたことはない」は、ただの感想。「いつか乗り越えられるはず」は勝手な願望。「自分はもっと辛かった」は不幸自慢。感想も願望も不幸自慢も自分のこと。相談を受けるなら、自分を理解させるより、相手を理解すること優先で。相手の話に耳を傾けること。
— 生田美和 (@shodamiwa) 2014, 9月 19
白骨城の屍の声に耳を傾ける気はないのにですか(しろめ)
すごいですねの一言しか ないわけでしょお(おおいずみさんふうに)
口汚く言うと自分のなけなしの品位が下がりそうだし、あまり触れたくないからこのあたりでおしまい